「カッコ良すぎるだろ…」と思う日本史の出来事・場面
さていってみよう
(^^)
高杉晋作の功山寺挙兵
26歳で藩に対してクーデター起こすとか凄すぎる
http://ja.wikipedia.org/wiki/功山寺挙兵
功山寺挙兵は、元治元年12月15日に高杉晋作が
長州藩俗論派打倒のために功山寺で起こしたクーデター。
これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。
最初にかけつけたのが伊藤博文だったらしいな
宇佐八幡神託事件の和気清麻呂
http://ja.wikipedia.org/wiki/宇佐八幡神託事件
神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宣阿曾麻呂は「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、自ら皇位に就くことを望む。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。
清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。
道鏡を天皇に就けたがっていたと言われる称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷したのち、さらに「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流し、姉の広虫も「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させられて処罰された。
戦前は英雄扱いだったからな
不謹慎だが特攻隊
自分の国守るために敵艦に体当たりとか世界史に残る出来事だろ
http://ja.wikipedia.org/wiki/特別攻撃隊
赤穂浪士の討ち入り
http://ja.wikipedia.org/wiki/赤穂浪士
日露戦争での日本海海戦の東郷ターン
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本海海戦
この海戦は日本海軍の連合艦隊と、
ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊との間で戦われた。
日本海軍連合艦隊は連合艦隊司令長官東郷平八郎の指揮下で、
ロシア海軍両艦隊を撃滅し戦力の大半を失わせたが、
日本海軍連合艦隊の損失は軽微という海戦史上まれな一方的勝利となった。
これにより両国間のポーツマス講和会議への道を開いた。
当時、世界最大の軍事力を有していたロシア帝国の敗北は世界を驚愕させた。
日本海海戦で露天艦橋で指揮してた東郷平八郎
かしまのアレ
2000年には、アメリカ独立記念日を祝う洋上式典に参加するためニューヨーク港を訪れていた際に、港内でクイーン・エリザベス2号に接触されたが大きな被害はなく、
同船船長の代理で謝罪に訪れた乗組員の機関長と一等航海士に対し、(当時の)艦長の上田勝恵一等海佐は、「幸い損傷も軽かったし、別段気にしておりません。
それよりも女王陛下にキスされて光栄に思っております」とウィットに富んだコメントを返し、「テレグラフ」[や「イブニング・スタンダード」でも報道され語り草となっている。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/クイーン・エリザベス2
かしまのアレ
2000年には、アメリカ独立記念日を祝う洋上式典に参加するためニューヨーク港を訪れていた際に、港内でクイーン・エリザベス2号に接触されたが大きな被害はなく、
同船船長の代理で謝罪に訪れた乗組員の機関長と一等航海士に対し、(当時の)艦長の上田勝恵一等海佐は、「幸い損傷も軽かったし、別段気にしておりません。
それよりも女王陛下にキスされて光栄に思っております」とウィットに富んだコメントを返し、「テレグラフ」[や「イブニング・スタンダード」でも報道され語り草となっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/クイーン・エリザベス2
関ヶ原は普通にカッコイイ
だって戦国時代の締めくくりがどっかの大国と小国の戦いじゃなくていろんな勢力が徳川主導の東、反徳川石田主導の西に分かれて争う
「天下分け目の戦い」だもん
そりゃあ徳川圧倒的優勢、謀略の勝利、半日決着だけどもさ
http://ja.wikipedia.org/wiki/関ヶ原の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/小田原征伐
小田原討伐)は、1590年に豊臣秀吉が大義名分によって
北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。
惣無事令違反を名目に起こした征討で、天皇は後北条氏討伐の勅書を
発していなかったものの 、太閤であった豊臣秀吉は、
天皇の施策遂行者として名分を備えていたという立場で臨んでいた。
二回の襲来を返した元寇だろ
http://ja.wikipedia.org/wiki/元寇
元寇とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国
及びその服属政権となった高麗王国によって
二度に亘り行われた対日本侵攻の呼称である。
一度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、
二度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。
だから朝鮮を信じちゃだめなんだって~!
敵国でございます(^^)
新田義貞が稲村ヶ崎で黄金の太刀を投じて
潮を引かすという奇跡を起こし、
ここから鎌倉に攻め込んだ伝説
http://ja.wikipedia.org/wiki/稲村ヶ崎突破
現在、稲村ヶ崎突破については、干潮を利用して
進軍したという認識が広く浸透している。
『太平記』では、義貞が太刀を海に投じた所、
龍神が呼応して潮が引く『奇蹟』が起こったという話が挿入されている。
『梅松論』も、義貞の太刀投げにこそ言及していないが、
同様に『奇蹟』が起こった事を記述している。
長門の最期
http://ja.wikipedia.org/wiki/長門 (戦艦)
終戦後、1945年8月30日に、連合国軍の1国であるアメリカ軍に接収される。
アメリカ海軍による詳細な調査の後武装解除され、
1946年3月18日にクロスロード作戦(アメリカ軍の核実験)に
標的艦として参加するためマーシャル諸島のビキニ環礁へ出発する。
1946年7月1日の第一実験(ABLE、空中爆発/予定爆心地を大きくはずしてしまう)では
戦艦「ネバダ」が中心に配置され、「長門」は爆心予定地から
400mのところに置かれた。爆弾は西方600mにずれてしまい、
結果爆心地から約1.5 km(1,640ヤード)の位置となった。
この時「長門」はほとんど無傷であった。
7月25日の第二実験(BAKER、水中爆発)では爆心地から900-1000mの位置にあり、
右舷側に約5度の傾斜を生じた。
それでも「長門」は海上に浮かんでいた。
しかし、4日後の7月29日の朝、原爆実験の関係者が
「長門」のいた海面を見てみると、既に同艦の姿は海上にはなかった。
あくまで伝承だが
足利義輝の最後と松永久秀の爆死
http://ja.wikipedia.org/wiki/足利義輝
永禄8年(1565年)5月19日、久秀と三好三人衆は主君・三好義継とともに
義栄を奉じて謀叛を起こし、二条御所を軍勢を率いて襲撃した。
松永久秀らに二条御所で襲われた際、将軍家秘蔵の刀を数本畳に刺し、
刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦ったという。
この最後の奮戦を讃えて、現代において「剣豪将軍」と称される場合もある。
辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」
http://ja.wikipedia.org/wiki/松永久秀
天正5年(1577年)に上杉謙信、毛利輝元、
石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。
信長は、嫡男・織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、
10月には信貴山城を包囲させ、所有していた
名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると命ずるが拒絶、
織田軍の総攻撃が始まると平蜘蛛を天守で叩き割り
(一説には茶釜に爆薬を仕込んでの自爆)、10月10日に爆死した。
俺はやっぱり
『元寇』
かな(^^)
あれは凄いと思う
あの心意気が今でも日本人の心の奥に引き継がれていると思いたい。