日本史上一番強い剣士ってだれなの?
■剣術とは
主に武士が修めた武術の一つであり、現代日本の武道である剣道の母体となった。
戦乱のなかった江戸時代に大きく発展したため、戦場で着用する甲冑は前提とされず、平時の服装での斬り合いを想定している形が多い。
実際の戦場での斬り合いは形通りではなく、袈裟(鎖骨・頚動脈)に斬り込むことが主流であったともいわれている。
また、示現流やその流れを組む剣術(薬丸自顕流等)を習得した薩摩藩士の戦いぶりにおいて、その斬殺死体のほとんどが袈裟斬りを受けて即死に至っていたともいわれる。
塚原朴伝
http://ja.wikipedia.org/wiki/塚原卜伝
塚原 卜伝は、日本の戦国時代の剣豪、兵法家。
『卜伝百首』の後にある加藤信俊による序では、39度の合戦、19度の真剣勝負に臨みながら一度も負傷しなかったと記述されている。
生涯に斬って捨てた剣士の数は、記録に残っているだけでも212人である。上泉伊勢守
http://ja.wikipedia.org/wiki/上泉信綱
上泉 信綱または上泉伊勢守は、上州出身の戦国時代の兵法家。
上泉城主であるとともに、兵法家として陰流、神道流、念流などの諸流派を学び、その奥源を究め、特に陰流から「奇妙を抽出して」新陰流を大成した。
宮本武蔵にならどうやったって勝てないんじゃね?
http://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵
宮本 武蔵は、新免武蔵藤原玄信のことであり、江戸時代初期の剣豪。
京都の兵法家吉岡一門との戦いや巌流島での試合が、小説、時代劇映画、テレビドラマ(時代劇ドラマ)等の題材になり有名。
著書である『五輪書』は、現代も人生哲学書として、あるいは経営、スポーツなどの指導書としても読まれ、日本のみならず翻訳されて世界各地で愛読され影響を与え続けている。宮本武蔵って実際のところはどうだったんだ?
なんかこの人って剣豪ってよりは兵法家ってイメージのが強いんだが。沖田総司
http://ja.wikipedia.org/wiki/沖田総司
沖田 総司は、幕末の武士、新選組一番組組長及び撃剣師範。
文久3年(1863年)の浪士組結成に参加して上洛する。
分裂後は近藤らに従い残留し、新選組を結成。沖田は一番組組長となる。沖田の一番組は常に重要な任務をこなし、
剣豪ひしめく新選組の中でも一、二を争う程多くの人を斬ったと言われ、この時期では同年9月の芹沢鴨暗殺、元治元年5月20日の大坂西町奉行所与力・内山彦次郎暗殺など手がけたという。斎藤一
http://ja.wikipedia.org/wiki/斎藤一
斎藤 一は、日本の武士(新選組隊士)、警察官。
幕末期に新選組で副長助勤、三番隊組長、撃剣師範を務める。
沖田総司、永倉新八と並び新選組最強の剣士の一人であったといわれる。永倉は弟子に、「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語ったという。沖田、永倉らとともに新選組の撃剣師範を務めた。大坂力士との乱闘、組内部における粛清、天満屋事件、戊辰戦争などで剣を振るった歴戦の隊員であった。足利義輝
http://ja.wikipedia.org/wiki/足利義輝
足利 義輝は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍。
上泉信綱・塚原卜伝に指導を受け、卜伝からは一説に奥義「一の太刀」を伝授され、鎌倉から江戸までの征夷大将軍の中でも、最も武術の優れた人物として伝えられている。
松永久秀らに二条御所で襲われた際には足利家秘蔵の刀を数本畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦ったという。
このため、現代において「剣豪」「剣聖将軍」と称される場合もある。伊東一刀斎
切り殺した数が他の剣豪と比べて段違いに多い
http://ja.wikipedia.rg/wiki/伊東一刀斎
伊東 一刀斎は戦国時代から江戸初期にかけての剣客。
『一刀流極意』によると「高上金剛刀を極意とし英名を走せていた中条流の達人鐘捲自斎通宗を江戸に訪ね、就いて自斎から中条流の小太刀や自斎の工夫になる中太刀を学んだ。
弥五郎(一刀斎)は日夜一心不乱に鍛錬の功を積んだので(中略)自斎は深く感心して自流の極意、奥秘の刀たる妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣の五点を悉く弥五郎に授けた」という。
ほかにも、自ら編み出した極意として、愛人に欺かれて刺客に寝込みを襲われ、逆襲したときに生まれたという秘太刀「払捨刀」、他に刃引・相小太刀・越身、鶴岡八幡宮に参籠して無意識のうちに敵を斬り、悟りを得たという「夢想剣」などがある(溝口派一刀流伝書、他流伝書)。まー伊勢守か北辰だろうよ
千葉周作
http://ja.wikipedia.org/wiki/千葉周作
千葉 周作は、日本の武士。江戸時代の剣術の流派北辰一刀流の創始者で、千葉道場の総師範。
その道場である玄武館は幕末三大道場のひとつで、北辰一刀流剣術の門下から多数の幕末の著名人を輩出し、志士の間での閥を作った。
源義経は?
http://ja.wikipedia.org/wiki/源義経
源 義経は、平安時代末期の武将である。
河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。
兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。柳生宗矩は?
http://ja.wikipedia.org/wiki/柳生宗矩
柳生 宗矩は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の剣術師範。
剣術面においては、江戸初期の代表的剣士の一人として知られる。
将軍家指南役として、当時の武芸者の中で最高の地位に位置し、「古今無双の達人」「刀法の鳳(おおとり)」「剣術無双」と賞賛されている。
新陰流(柳生新陰流という呼称は現在の通称)を将軍家御流儀として確立し、当時最大の流派に育て上げた。現実的な話としては柳生利厳辺りじゃないかな
幕末はまた別として、戦国前中期の武芸者と末期の武芸者では
後者が技術的に上回っていなければ流派の名が泣く
そういう意味では天才石舟斉の元修業に明け暮れ、従軍経験もあり、
平時の剣術の基礎ともいえる「直立つる身」の考案者である利厳は
集大成的な存在と言えるんじゃなかろうか
柳生 利厳は、江戸時代初期の剣術家。
肥後加藤領内で一揆が発生し、その鎮圧にあたった際、指示に従わない古参の伊藤長門守光兼を斬り捨て、一揆を鎮圧した後に、古参の将を斬った責を取って、加藤家から逐電した。
その後、諸国巡遊の旅に出たとされる。この諸国巡遊の旅に出る理由は諸説あり、柳生一門の者を斬ったためだともされている。また吉川英治の小説などでは、この諸国巡遊の旅の時に宮本武蔵と対峙している所が描かれているが、実際に対峙したかは不明。
1615年(元和元年)から尾張徳川家の家老・成瀬正成の推挙で徳川義直に仕えた。利厳はここで義直に新陰流を直伝している。その後、利厳は義直に30年にわたって兵法指南役として仕えた。っていうか、やはり何事も進化しているので現代の剣道の日本一が一番強い人となるんじゃないかな(^^)技術は基本的に進歩していくから剣術が廃れた現代はともかく、少人数での戦いなら幕末が一番な気もする。皆様の心の中での最高の『剣士』は誰でしょうか??