皆さまこんにちは(^^)
今日は『昭和の日』でございますね!
激動の昭和
イメージではそんな感じがいたします
昭和の日とは
2007年・平成19年、比較的新しく制定された祝日です。
「昭和の日」とは、現行の祝日法に『激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす』と、その趣旨が規定されています。
1948年・昭和23年から、41年間という長い間、4月29日は「天皇誕生日」でした。
それまでは「天長節」と呼ばれていました。
大正天皇崩御の際にはまだお若かった昭和天皇も、第二次大戦と戦後という苦しく難しい時代を、国民と共に過ごしてこられたのです。
「昭和の日」とは、現行の祝日法に『激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす』と、その趣旨が規定されています。
1948年・昭和23年から、41年間という長い間、4月29日は「天皇誕生日」でした。
それまでは「天長節」と呼ばれていました。
大正天皇崩御の際にはまだお若かった昭和天皇も、第二次大戦と戦後という苦しく難しい時代を、国民と共に過ごしてこられたのです。
まだ若い世代の人も、『一番大変な時代を過ごされた天皇』として、昭和天皇を覚えているようです。
「神から国民の象徴に」の変化は、アメリカの進駐に伴って、様々な問題もあったことでしょう。
近年の公開の映画は観てはいませんが、人として天皇としての苦悩や生活が「映画」になる時代になったのかと、感慨深いものがありました。
「神から国民の象徴に」の変化は、アメリカの進駐に伴って、様々な問題もあったことでしょう。
近年の公開の映画は観てはいませんが、人として天皇としての苦悩や生活が「映画」になる時代になったのかと、感慨深いものがありました。
昭和への感慨は、戦争やその後の飛躍的な復興など、国民の間には特別なものがあるようです。
そして、様々な苦難やそれに続く繁栄を、日本の国の今後の礎にするためにも、祝日として長く伝えていかなければならないと、考えたのでしょう。
新しい時代には新しい指針も考え方もあるでしょうが、今ある日本の繁栄は「昭和の時代」が存在していたからに他なりません。
そして、様々な苦難やそれに続く繁栄を、日本の国の今後の礎にするためにも、祝日として長く伝えていかなければならないと、考えたのでしょう。
新しい時代には新しい指針も考え方もあるでしょうが、今ある日本の繁栄は「昭和の時代」が存在していたからに他なりません。
痛ましい戦争の被害を忘れることなく、「昭和の日」を座右の銘として、日本は強く生き抜いて欲しいと感じています。
昭和の日の由来や意味
長い間、昭和天皇の誕生日であった国の祝祭日「天皇誕生日」は、1989年・昭和64年の1月7日の天皇崩御によって、年号が改まりました。
平成の時代に入ることで、「天皇誕生日」の祝日は12月23日に移ったのです。
そして、4月29日は「みどりの日」の祝日として、残されることになります。
平成の時代に入ることで、「天皇誕生日」の祝日は12月23日に移ったのです。
そして、4月29日は「みどりの日」の祝日として、残されることになります。
しかし、多くの国民の「昭和」と言う時代を祝日として残したいとの要望が国会を動かし、「国民の祝日に関する法律・祝日法」が改正されて、2007年・平成7年に「みどりの日」を「昭和の日」に改正することになりました。
特に昭和天皇をイメージするということではなくとも、昭和と言う激動の時代を共に生き抜いてきたという国民の気持ちは、この「昭和の日」に結実されていると感じます。
特に昭和天皇をイメージするということではなくとも、昭和と言う激動の時代を共に生き抜いてきたという国民の気持ちは、この「昭和の日」に結実されていると感じます。
「みどりの日」は、5月4日に祝日として移動しています。
ゴールデンウィークを構成している祝祭日は、4月29日の「昭和の日」に始まり、5月3日の「憲法記念日」、5月4日の「みどりの日」、5月5日の「こどもの日」と続きます。
自然をこよなく愛された「昭和天皇」ゆかりの祝日が、「昭和の日」「みどりの日」と2日もあることに、改めて感慨を覚えますね。
ゴールデンウィークを構成している祝祭日は、4月29日の「昭和の日」に始まり、5月3日の「憲法記念日」、5月4日の「みどりの日」、5月5日の「こどもの日」と続きます。
自然をこよなく愛された「昭和天皇」ゆかりの祝日が、「昭和の日」「みどりの日」と2日もあることに、改めて感慨を覚えますね。
昭和の日はいつから
2007年・平成19年に、「祝日法・国民の祝日に関する法律」の改正によって、「昭和の日」は祝日とされました。
1989年・昭和64年1月7日、昭和天皇崩御のため、同年以降の「天皇誕生日」が祝日として続けられなくなったための処置です。
以前は先帝祭として、孝明・明治・大正の各天皇崩御日は休日とされていました。
1989年・昭和64年1月7日、昭和天皇崩御のため、同年以降の「天皇誕生日」が祝日として続けられなくなったための処置です。
以前は先帝祭として、孝明・明治・大正の各天皇崩御日は休日とされていました。
昭和天皇の場合は、現行の休日法では休日を設けられないため、昭和の名にちなんだ新祝日としての存続が図られたようです。
しかし、野党の反対によって『みどりの日』と名称が定められます。
その後2度、議員提出法案が否決され、2004年の3度目の改正案提出が、継続案件として2005年・平成17年に国会で成立します。
しかし、野党の反対によって『みどりの日』と名称が定められます。
その後2度、議員提出法案が否決され、2004年の3度目の改正案提出が、継続案件として2005年・平成17年に国会で成立します。
この改正法は2007年・平成19年から施行、4月29日は『昭和の日』となりました。
「みどりの日」は、由来でも書いたように5月4日に移動しています。
「みどりの日」は、由来でも書いたように5月4日に移動しています。
正しい歴史認識さんのブログより転載です
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/
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先帝陛下(昭和天皇)の戦後の全国ご巡幸
【先帝陛下(昭和天皇)のお話】
●戦中
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アッツ島の守備隊
昭和18年(1943年)5月12日の米軍アッツ島上陸以来、先帝陛下(昭和天皇)は、同地の守備隊の模様をいたく気にかけられ、 毎日のように戦況を御下問されておられた。
5月29日夕刻、守備隊から最後の電報が発せられた。
「機密書類全部焼却。是レニテ無線機破壊処分ス」
陸軍大臣は、直ちに参内し、アッツ玉砕を天皇に奏上した。
陛下は、陸軍大臣大臣の報告を黙って聞くと、目を閉じしばし佇立された。
そして、ひと言、 「アッツ島守備隊は、まことに最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」 とおっしゃった。
陸軍大臣は、陛下が自分の報告を聞き違えられたかと思い、言葉を返した。
「恐れながら陛下、彼らは無線機を既に破壊しており、お言葉をお伝えする手段がございません」と申上げると、
陛下は、 厳しい声で、「構わぬ。それでも構わぬから、そういう電波を出しなさい!」とご命令された。
陸軍大臣は一礼して引き下がり、控えの間に至ると両手で顔を覆って男泣きに泣き崩れた。
直ちに北のアッツ守備隊に向け、電報が放たれ、陛下の御言葉が打電され続けた。
勿論、アッツから返事が来ることはなかったが。
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Clik here to view.![1943年5月,アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品がアンカレッジの博物館に展示されている。]()
アンカレッジの博物館には、昭和18年(1943年)5月に、アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品が展示されている
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■動画
『 凛として愛 』
http://www.youtube.com/watch?v=HBxaF0wps6U
57:17~
大東亜戦争最初の玉砕地となった北のアッツ島では、山崎保代大佐以下2,500の将兵が守備していたが、15,000のアメリカ軍相手に18日間善戦。
昭和18年5月29日、敵陣地の突撃して玉砕した。
アッツ島守備隊の最期が天皇陛下にご報告されると、
陛下は、「最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」と言われたが、既に将兵は玉砕し、無線機も破壊されてない。
そのことを申し上げると、陛下は厳しい声で、「それでもよい!電波を出しなさい!」とご命令されたという。
雪と氷で閉ざされた北のアッツに向けて、陛下の御言葉が打電された。
諸国のために散華された2,500の将兵は、陛下の御言葉を耳にしたのであろうか。
●戦後
毎年「昭和の日」に、私は、先帝陛下(昭和天皇)の全国ご巡幸などについて紹介している。
日本が戦後、奇跡と呼ばれる復興をなしえた1つの要因は、全国ご巡幸で国民を励まされた先帝陛下を中心に、日本が結束を保ったことだった。
このことは、私たち日本人が永久に語り継いでいかなければならない。
まだ読んでいない方は勿論だが、既に読んだことがある方も、「昭和の日」を機会に改めて読んで頂ければ幸いだ。
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●マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉
「…(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。
一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。
また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。
いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…
陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。
九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。
陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。
『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』
――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか
――しかし陛下は続けました。
『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』
天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。
マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。
マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。
陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。
そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。
皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。
いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。
ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。
彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。
【マッカーサーおよび侍従長の証言】
以上が、三上教授の講演の言葉である。
この講演にも出てきた一九四五年九月二七日の天皇とマッカーサーの会見については、辻井圭三氏(キリスト伝道会「活水の群」副理事長)も、こう書いている。
「この件については、第二回目の通訳をされた、内閣情報局総裁であり戦後外務次官も務められた奥村勝蔵氏を通じて、私は詳しく伺いました」
そして、三上教授の言っている通りであると述べている。
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。
「天皇の話はこうだった。
『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)
天皇とマッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。
しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、次のように著書の中に書いている。
「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。
メールマガジン
「話題通信」
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Clik here to view.![昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter]()
■動画
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk
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Clik here to view.![戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜]()
戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜
●貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇
また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。
母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られたのです。
その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。
貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」
陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。
陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。
原爆の地、広島に行幸された時でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。
言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。
陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」
歩一〇四記念講演特集号より
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釜石
昭和21年(1946年)から昭和29年(1954年)までの間に行われた御巡幸では、敗戦直後で宿舎がままならず、陛下が列車の中、学校の教室に泊まられた事もあった。
それでも陛下は、「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」とおっしゃり、御行幸を続けられた。
先帝陛下(昭和天皇)が硫黄島に行かれた時、硫黄島自体がお墓だからとおっしゃり、靴をお脱ぎになって上陸された。
因みに小沢一郎は普通に靴をはいていたそうだ。
遺骨収集が完了していない地下壕跡に入るときには、周りの案内役もそのまま足を踏み入れたのに、陛下だけは靴をお脱ぎになって裸足になられた。
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硫黄島
昭和63年9月、先帝陛下が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。
40数年前の御巡幸で陛下に励まされた人々も少なくなかった。
陛下は、病床で「もう、だめか」とおっしゃったことがあった。
医師たちは、陛下がご自分の命の事をおっしゃったのかと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのだった。
御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた陛下の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。
東京の空を台風が過ぎ去った翌日、侍従長は、陛下に「台風が去ってようございました。」と申し上げた。
すると、陛下は、次のとおりおっしゃった。
「… まだ、東北、北海道地方はこれからである。」
「陛下!ありがとうございました!」
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先帝陛下(昭和天皇)の戦後の全国ご巡幸
【先帝陛下(昭和天皇)のお話】
●戦中
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アッツ島の守備隊
昭和18年(1943年)5月12日の米軍アッツ島上陸以来、先帝陛下(昭和天皇)は、同地の守備隊の模様をいたく気にかけられ、 毎日のように戦況を御下問されておられた。
5月29日夕刻、守備隊から最後の電報が発せられた。
「機密書類全部焼却。是レニテ無線機破壊処分ス」
陸軍大臣は、直ちに参内し、アッツ玉砕を天皇に奏上した。
陛下は、陸軍大臣大臣の報告を黙って聞くと、目を閉じしばし佇立された。
そして、ひと言、 「アッツ島守備隊は、まことに最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」 とおっしゃった。
陸軍大臣は、陛下が自分の報告を聞き違えられたかと思い、言葉を返した。
「恐れながら陛下、彼らは無線機を既に破壊しており、お言葉をお伝えする手段がございません」と申上げると、
陛下は、 厳しい声で、「構わぬ。それでも構わぬから、そういう電波を出しなさい!」とご命令された。
陸軍大臣は一礼して引き下がり、控えの間に至ると両手で顔を覆って男泣きに泣き崩れた。
直ちに北のアッツ守備隊に向け、電報が放たれ、陛下の御言葉が打電され続けた。
勿論、アッツから返事が来ることはなかったが。
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アンカレッジの博物館には、昭和18年(1943年)5月に、アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品が展示されている
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■動画
『 凛として愛 』
http://www.youtube.com/watch?v=HBxaF0wps6U
57:17~
大東亜戦争最初の玉砕地となった北のアッツ島では、山崎保代大佐以下2,500の将兵が守備していたが、15,000のアメリカ軍相手に18日間善戦。
昭和18年5月29日、敵陣地の突撃して玉砕した。
アッツ島守備隊の最期が天皇陛下にご報告されると、
陛下は、「最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」と言われたが、既に将兵は玉砕し、無線機も破壊されてない。
そのことを申し上げると、陛下は厳しい声で、「それでもよい!電波を出しなさい!」とご命令されたという。
雪と氷で閉ざされた北のアッツに向けて、陛下の御言葉が打電された。
諸国のために散華された2,500の将兵は、陛下の御言葉を耳にしたのであろうか。
●戦後
毎年「昭和の日」に、私は、先帝陛下(昭和天皇)の全国ご巡幸などについて紹介している。
日本が戦後、奇跡と呼ばれる復興をなしえた1つの要因は、全国ご巡幸で国民を励まされた先帝陛下を中心に、日本が結束を保ったことだった。
このことは、私たち日本人が永久に語り継いでいかなければならない。
まだ読んでいない方は勿論だが、既に読んだことがある方も、「昭和の日」を機会に改めて読んで頂ければ幸いだ。
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●マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉
「…(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。
一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。
また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。
いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…
陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。
九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。
陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。
『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』
――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか
――しかし陛下は続けました。
『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』
天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。
マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。
マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。
陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。
そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。
皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。
いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。
ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。
彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。
【マッカーサーおよび侍従長の証言】
以上が、三上教授の講演の言葉である。
この講演にも出てきた一九四五年九月二七日の天皇とマッカーサーの会見については、辻井圭三氏(キリスト伝道会「活水の群」副理事長)も、こう書いている。
「この件については、第二回目の通訳をされた、内閣情報局総裁であり戦後外務次官も務められた奥村勝蔵氏を通じて、私は詳しく伺いました」
そして、三上教授の言っている通りであると述べている。
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。
「天皇の話はこうだった。
『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)
天皇とマッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。
しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、次のように著書の中に書いている。
「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。
メールマガジン
「話題通信」
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■動画
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk
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戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜
●貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇
また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。
母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られたのです。
その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。
貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」
陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。
陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。
原爆の地、広島に行幸された時でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。
言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。
陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」
歩一〇四記念講演特集号より
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釜石
昭和21年(1946年)から昭和29年(1954年)までの間に行われた御巡幸では、敗戦直後で宿舎がままならず、陛下が列車の中、学校の教室に泊まられた事もあった。
それでも陛下は、「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」とおっしゃり、御行幸を続けられた。
先帝陛下(昭和天皇)が硫黄島に行かれた時、硫黄島自体がお墓だからとおっしゃり、靴をお脱ぎになって上陸された。
因みに小沢一郎は普通に靴をはいていたそうだ。
遺骨収集が完了していない地下壕跡に入るときには、周りの案内役もそのまま足を踏み入れたのに、陛下だけは靴をお脱ぎになって裸足になられた。
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硫黄島
昭和63年9月、先帝陛下が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。
40数年前の御巡幸で陛下に励まされた人々も少なくなかった。
陛下は、病床で「もう、だめか」とおっしゃったことがあった。
医師たちは、陛下がご自分の命の事をおっしゃったのかと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのだった。
御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた陛下の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。
東京の空を台風が過ぎ去った翌日、侍従長は、陛下に「台風が去ってようございました。」と申し上げた。
すると、陛下は、次のとおりおっしゃった。
「… まだ、東北、北海道地方はこれからである。」
「陛下!ありがとうございました!」
日本人はしっかりと皇紀2674年の歴史と伝統を学ぶべきである。日本のような国は世界に二つとないまれに見る国家である。天皇陛下を中心とした日本だからこそ日本の持つ強さがある。日本の平和と幸せを祈る天皇陛下がいらっしゃる日本は幸運である。日本の皇室は海外の皇室とは全く違った存在であり、古来から民の平和と幸せと民主主義を重んじ自己の利益を放棄し、神に祈る存在であったのだの思う。だからそ今日まで、そしてこれからも存続するのであると思う。悲しくも昭和天皇のお顔に微笑がないのはこれも仕方がないと思うと共に日本国の非常に厳しい歴史を経験された陛下のご傷心とご心情を少なからずも理解したい。国家のために尊い命を捧げた日本国民、英霊に対して天皇陛下のつらかったお心を察します。天皇陛下万歳!
(^^)